今朝(5/2)の朝日新聞11面に樋口氏へのインタビュー「戦時世代が語る憲法といま」が掲載されています。インタビーの表題は『国民が権力を縛る明治からつながる日本の「持ち物」』です。全体で3500字余りの記事ですが、その一部をご紹介します。
公正な社会をつくろう~日本国憲法はその一つとして生まれた。
公正な社会をつくろうというのは、第2次世界大戦後、日本も含め、戦勝国にも敗戦国にも共通した流れでした。日本国憲法はその一つとして生まれました。この憲法のもとで私たちは、外国から「日本ほど平等な社会はない」とまで評価された社会をつくってきました。それがどこでどう変わってしまったのか。
戦前からの自由民権運動・大正デモクラシーとつながる日本国憲法(押しつけとは違う)
戦前の日本のすべてが真っ暗な時代だったというわけではありません。誰でも知っている明治自体の自由民権運動があり、これも誰でも知っている大正デモクラシーがあり、マルクス・エンゲルス全集が世界で一番売れた時代でもありました。日本国憲法を「この国に合わない」「押しつけだ」と非難する人たがいますが、それは違う。この憲法の価値観は、幕末以来の日本の近代と無縁ではありません。先ほどあげた自由民権運動や大正デモクラシーといった、幕末・明治以来の日本社会の「持ち物」とつながっています。むしろ35年~45年の国粋主義、全体主義の時期こそ、幕末からの流れと異なるものだった。ポツダム宣言は軍国主義に染まる前の日本の民主主義を「復活強化」せよといい、日本政府はそれに調印したわけです。
近代国家の憲法とは、国民が権力を縛るもの
民主主義という制度は、選挙という民主的な手続きによって、独裁者を生んでしまう恐れがあります。民主的に生まれた権力であっても、国民が作る憲法によって制限する。それが憲法の役割です。政治家の側が、選挙で多数を得たのだから白紙委任で勝手なことをしていい、などということではありません。近代国家における憲法とは、国民が権力の側を縛るものです。権力の側が国民に行動や価値観を指示するものではありません。数年前に与野党の政治家が盛んに言っていた、憲法で国民に生き方を教えるとか、憲法にもっと国民の義務を書き込むべきだ、などというのはお門違いです。
「決められない政治」へのいらだちと憲法
停滞する政治や社会を、憲法を改正することで変えよう、という声が聞こえてきます。しかし、たとえば衆参両院の議論がまとまらないのは、憲法が定める二院制がわるいからでしょうか。決められない首相は、公選制になったら正しく決断できるようになるでしょうか。憲法に「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」があるのだから、脱原発で電力が十分供給されないのはけしからん、とでも言うのでしょうか。あの小泉純一郎首相でさえ、イラクへの自衛隊派遣の際「参戦」とは言えなかった。本当に9条は空洞化したのでしょうか。
大きな物差しで将来を考えよう
世界には、日本国憲法よりはるかに古い憲法を今も使っている国があります。アメリカでは「建国の父」たちの権威は絶対で、1788年に成立した合衆国憲法、あるいは1776年の独立宣言が現役です。フランスでは1789年の人権宣言が現行法なのです。彼らはこうしたものを度外視して憲法草案を作るという発想はありません。「決められない政治」にいらだつあまり、大きな物差しでこの社会の将来を考えることを忘れないでください。
以上、「インタビュー」から抜粋してのご紹介でした。
明日は、憲法9条の会徳島主催で、記念講演会(午後1時半~あわぎんホール)・街角トーク(10時半~徳島駅前)など、多彩な催しを準備しています。では。