10月28日午後1時半から徳島支部総会。
第一部としてNHK「ビデオ・ビルマに散った徳島第143連隊」が上映されました.
12月8日「トラトラトラ」のハワイ奇襲攻撃での日米開戦はよく知っていましたが、誰にも見送られることなく、兵士にも極秘で11月16日密かに徳島蔵本駅から出兵した徳島143連隊は12月8日東南アジア・タイに上陸、イギリスの植民地だったビルマへ進軍、英国・インド連合軍を相手に連戦連勝を重ね、半年でほぼ全土を手中に収めたが、戦局の優位は続かず、
~以下徳島新聞(2008年10月1日付け)「ビルマに散った6216人」のを引用すると~
食料や弾薬が乏しい上、長引く戦争に疲れきった兵士たち。「一発撃てば、相手は千発撃ち返してきた」。そう感じるほど、圧倒的な物量を誇る敵軍の攻勢は日増しに激しくなった。インド北東部のアッサム地方の攻略を目指し、戦死者三万人を出して失敗に終わった44年の日本軍によるインパール作戦後、連帯は同年五月、ビルマ中央部のペグー山系に追い詰められ完全に包囲された。食料はすぐに底をつき、「辺りは竹林だらけ。タケノコ汁を作って飢えをしのいだ」と勝浦さん。塩分不足で思うように体が動かず、極度の栄養失調で餓死する兵士が続出した。苦しい山中生活も二ヶ月が過ぎた七月、将校が集まり、「このままでは死を待つのみ。敵陣を突破して山の東側を流れるシッタン川を渡り、タイ国境に抜けよう」と決断。闇夜に乗じて、竹のいかだにつかまり、幅一キロ以上の川を泳いで渡る強行に出た。しかし、飢えや病で体力の限界を超えていた兵士には、容易な作戦ではなかった。川にたどりつく前に力尽き「死して虜囚の辱めを受けず」と手投げ弾で自決する兵士。雨期で濁流となった川にのみ込まれ、下流の入江に数多くの遺体が浮かんだ。 と~以下略。
心ならずも、侵略戦争で命を落とした兵士たち、「祖国と家族を守るために散っていった英霊」などという表現で「美化」するのではなく、戦争の痛ましい一番の犠牲者として、無念の死に哀悼を表し心に刻みたいと思います。 では。