神奈川県厚木市の公契約条例の制定過程と内容、制定後の実施状況について行政視察(4/12)を行いました。

カテゴリー: 市議会 | コメントする

助任小学校、徳島中学校の入学式でした。助任小学校には165名の新入学で全校生徒は922名とのこと、引き続き市内で最も生徒数の多い小学校に。徳中では152名全員の氏名が呼ばれ、「全員の入学を許可します」と校長先生が宣言。ブラバンの歓迎演奏で厳粛にそして華やかな入学式となりました。

カテゴリー: お知らせ・ご案内 | コメントする

大栗清實顕彰碑前祭り(2018.4.10)開かれる~「治安維持法下の無産者医療運動と大栗清實」について藤田廣登氏(労働者学習協会理事、伊藤千代子の会(在京)事務局等)が講演

藤田氏は~民医連のルーツと先達たちが切り拓いたもの~と題して1時間半、大栗清實氏が中心となって戦前の暗黒時代に立ち上げた無産者医療・運動を新たに発掘された資料を含め縦横に話されました。 皆さんは、今から85年前の1933年小林多喜二が虐殺された年、3月3日未明に発生した三陸大地震・大津波被害救援に義捐金と医薬品をもって救援にかけつけて逮捕された人々がいたことを聞いたことがありますか。と切り出した藤田さん。
~~日本共産党の赤旗(せっき)は、3月10日号でその惨状をいち早く伝え、共演に立ち上がることをことを呼びかけました。その呼びかけに応えて、一番乗りは、東京葛飾・亀有無産者診療所の渡邊宗治医師、大崎無産者診療所の高島(砂間)アキ看護婦、救援会の中野健二ら3人。列車・バス・船を使い、警察の監視網をくぐりぬけて3日間かけて宮古・田老に到達。現地は、10メートルを超す大津波で「残ったのは役場と学校とお寺さんだけ、全戸数362戸のうち流失・倒壊が358戸、住民1798人中犠牲者736人で全滅」などと記されているそうです。救援に駆け付けた渡邊氏らは、義捐金と医薬品を届けて診療所活動開始直後に通報され警官隊に逮捕拘留されてしまいました~~
 当時の4月6日付「赤旗(せっき)」は「三陸被災地に三百余名の大衆的検挙」の見出し、「三月二〇日には、労救派遣の医師・渡邊君、その他二名の動詞が宮古で逮捕され」と報じています。
  ここで「質問」~大災害の救援活動という崇高な任務に赴いた入り・看護婦たちがなぜ逮捕されたのでしょうか。と続ける藤田氏は、こう語りました。
 「それは戦前の労働・農民運動、市民・文化活動、それを支える共産党を非合法下において民主的な活動を取り締まる「治安維持法」によるものです。こうして天皇絶対の専制支配体制と軍国主義が国民の自覚的運動と小林多喜二のようにその活動の先頭に立つ働き手を虐殺したり、監獄に閉じ込めておいて侵略戦争に突入していったのです。戦前の活動はこうした厳しい環境の中で活動した。それでも勇気ある先輩たちはそれにひるまずに戦いを続けました。と」
 この中に出てくる、「無産者医療・診療所」は一言でいえば今日の民医連院所のルーツであり、徳島県阿南市出身の大栗清實氏はこの無産者診療所結成を呼び掛けたその人で、藤田氏は、大正末期から昭和にかけて世界的大恐慌のあらしが吹き荒れ、失業者があふれ、米や繭の大暴落、娘の身売り、お金がないために医者にかかれない、保証金がないたに入院もできない,往診にもきてくれない、健康保険では効かない薬ばかり、金持ちは自費診療、医者は金持ち大事にするという貧富の差が命と引き換えにされる時代でした。こうした現状を改善し、だれでもかかれる医者、病院が欲しいという要求が全国に満ち溢れ、この要求にこたえる運動が「無産者診療所」運動だつたのです。この運動の基礎作りから、その中心になって働いた「大栗清實」とその盟友たちの群像に光を照射することは、全然の困難な情勢の中で人民に寄り添い、たたかい、抵抗した群像を正しく評価し、リレーランナーとして今日を生きる私たちへの指針となるでしょうと語って下さいました。
 講演は、1時間半でも足りないくらいの分量でしたので、まだまだお話の核心部分には程遠いとは思いますが、とりあえず、大栗清實氏の顕彰碑前祭の報告とします。

カテゴリー: 見た・聞いた | コメントする

4月2日健生病院前で、渭北支部(3人)の皆さんと「憲法署名」~暖かい春風の下1時間で50余筆の賛同をいただきました。

カテゴリー: みたおさむ物語 | コメントする

水彩画をどうぞ~大歩危峡

カテゴリー: 水彩画ギャラリー | コメントする