野田佳彦首相が16日記者会見し、「原子炉は冷温停止状態に達し、事故そのものは収束に至ったと確認された。」と述べましたが、今朝の新聞はいっせいに野田首相の「事故収束宣言」について批判しています。
徳島新聞は、一面で「除染や帰宅課題山積み」の見出しをそえ、2面では、「原発事故収束宣言」と題して「拙速 理解得られず」と解説で真っ向から批判しました。
以下、「解説」末尾の一文をご紹介します。
『首相は住民の帰宅や除染など「事故との闘いは終わっていない。」と述べた。通過点に過ぎないことを認めつつ、収束を宣言することに「違和感はないのかと」問われたが、正面から答えなかった。避難した住民はいつ帰宅できるのか、国民は放射性物質への不安から解放されるのか。誠実な回答を期待した国民を首相は裏切った』
広辞苑で収束とは「おさまりがつくこと」とされていますが~
「収束」とは、広辞苑によると「おさまりをつけること」「おさまりがつくこと」とあります。溶けた燃料の状態もわからず、汚染水は増え続け、放射性物質の外部への放出もとまっていません。食品の安全もままならず、ガレキ処理の目処も立たず、避難住民の帰宅の目処もたちません。誰がどう見ても「おさまりがついた」ものとはいえないでしょう。徳島新聞の「解説」では、『年内の収束宣言を急いだ背景には、事故処理の順調ぶりをアピールし、国内外からの批判をかわしたいという政治的な思惑が透けて見える』と指摘されています。
ここまで、見透かされれば、民主党・野田政権の収束宣言の「メリット」はあったのでしょうか。 では。