戦死者を弔う心、8・15に寄せて

 今日は終戦記念日です。今日も色々な視点で戦争と平和を語る番組が組まれています。戦争によってなくなった命、傷ついた心、絶対に戦争をしては為らないと回述するお年寄り。そして、又一方で自民党谷垣総裁らの靖国参拝の記事も例年ほど大きな扱いではないが掲載されています。

 あなたは戦死者をどう見ていますか? 英霊として戦争を賛美する人、いや賛美しないまでも死者の魂を「英霊」と呼ぶ事によって慰めようとする多くの遺族がいることも事実です。日本人の死生観に死ねば全てが浄化されるという、ましてや強制的に或いは自らの意思で、それがどんなかたちにせよ「私心無く国のため」死んでいった「戦死者」を尊称して「英霊」と呼びたいと遺族が思うなら死者を敬う心情としてそれもありかも知れません。

 しかし…、僕にはどうしても「英霊」とは呼べないのです。それはあの侵略戦争を決して正当化してはならないし、「すぐれた死」とは思えないからです。「英霊」のおかげで今の私たちがいるのだと真顔で言う人たちがいます。しかし、本当にそうでしょうか。今日の日本、今日の私たちは、「英霊」と呼ばれる戦死者たちの命の代償の結果得られたものでしょうか? そうではありません。事実は、戦争によって本来あるべき無数の命の可能性が奪われたのです。命はつないでこそ未来があるのです。その命のつながり、未来を、侵略戦争はむざんに奪い取った。僕には「英霊」とは未来につなぐことができなかった「むなしい命」そう思えるのです。そして何処からか聞こえてくるのです『英霊などと俺を褒め称えるな、俺は死にたくなかった、命をつなぎたかった、命をつないで、未来に生きたかった。』と。あの戦争でなくなった310万人もの日本の命。もしその命が生きて、今の私たちの社会に繋がっていたら、どれほど大きな役割を果たしたことでしょう。私は戦死者を弔う心は「英霊」などともち上げるのではなく、死者の「無念」を引き継ぐことだと思っています。

 

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